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鯖街道 若狭おばまの寺を巡る まち歩き

若狭の宝はなぜ残っているのか?

若狭姫神社の「扁額」

むかしむかし、海幸彦と山幸彦という兄弟がいました。名前の通り、海幸彦は海の漁が得意で、山幸彦は山の猟が得意だったのですが、あるとき、兄弟は道具を交換して、弟の山幸彦が海に魚釣りにでかけました。

しかし、釣り針を海に落としてしまいます。その針を探し求めて海底の竜宮城に辿り着いた山幸彦は、豊玉姫というお姫様と出会い、結婚することになります。しばらくは海で暮らしていた山幸彦ですが、やがて地上に戻ることを決意して、釣り針を取り戻し、霊力のある玉を貰って地上に帰りつきます。

若狭彦神社の「遥拝所」

かつて、その神様は「若狭彦」と名のり、鵜の瀬にある白石(しらいし)の上に降臨しました。それも白馬に乗った「唐人」の姿で。それから神宮寺を仮の住まいにするなど移動をして、この場所に落ち着き「若狭彦神社」ができました。

それから数年後、同じ白石の上に、今度は豊玉姫があらわれて「若狭姫神社」ができました。そして、ふたりは子供をもうけるのですが、産屋の屋根を鵜の羽で葺こうと準備していた途中で生まれたことからウガヤフキアエズと名付けられました。

神宮寺の「聖水」

神宮寺には神社にあるはずの「しめ縄」が張ってあります。そして、お参りの際は「かしわで」を二回うちます。なぜでしょうか。それは「神宮寺」という名前の通り、神社とお寺が一体となっている場所だからです。

本堂の中には、お寺としての薬師如来像と、神社としての神棚が並んでいます。かつての日本にはまず神社があり、そこに中国から渡来した仏教が入ってきます。そして、中央政権である都は仏教を取り入れることを決めて、日本全国の神社にお寺を融合させながら神仏習合というひとつの信仰をつくっていきます。そんな変革期の姿が残っているのが神宮寺なのです。

鵜の瀬の「淵」

神宮寺から運んできた聖なる水は、この川に注ぎ込まれます。そして、しめ縄の下にある淵に吸い込まれ、奈良まで続く地下水路を通って運ばれていくといいます。

そんな鵜の瀬には、鵜という水鳥が生息していました。山幸彦と豊玉姫の間に生まれた子供の名前がウガヤフキアエズであったように、鵜は神聖な鳥とされてきました。というのも、鵜は魚をのみこんで、そのまま生で吐き出します。そのことから「生まれ変わり」や「不老不死」の願いが託されてきたのです。神話の中で、遠敷明神がお水送りを約束したときにも鵜があらわれました。そのことからも若狭の水に不老不死の願いが込められていることがわかります。

国分寺の「古墳」

東大寺をつくった聖武天皇は、全国各地に国分寺をつくらせました。南大門、中門、金堂が一直線に並び、中門のとなりに五重塔がある。そして、国分尼寺とセットになっている。それが国分寺のあるべき姿です。しかし、この国分寺には珍しくも古墳がふくまれています。古墳を潰してしまわずに、残して取り入れる形にしたのはなぜでしょう。それは、この国分寺をつくった人物が、古墳にゆかりのある人物だったから。そう考えると、膳さんの末裔がつくったのかもしれません。

この古墳の頂上には神社があり、若狭姫が祀られています。なぜ、若狭彦ではなく若狭姫なのでしょう。これも若狭姫がイコール遠敷明神であり、古くからの土地の神様であるとすれば、古くからの土地のリーダーであった膳さんが大切にしたのも頷けます。いずれにせよ、古くからの古墳と新しいお寺の融合という、これまでと同じ物語がこの国分寺でも見て取れるのです。

多田寺の「多田ヶ岳」

多田寺の御本尊は薬師如来です。きらびやかというより、素朴なつくりであることが古い時代の仏像であることを示しています。目のまわりを見ると、色が変色しています。なぜでしょうか。この多田の薬師さんは目を治してくれるといわれ、たくさんの人たちが目のまわりを触って願いをかけてきたからです。今も昔も目は悪くなりやすいもの。メガネもない時代でしたから、目に関して悩む人が多かったのかもしれません。

妙楽寺の「二十四面」

妙楽寺もまた多田ヶ岳の山を御神体とする場所にあります。奈良時代に行基というお坊さんが来たときに千手観音像を祀り、平安時代に空海が来たときにその千手観音像を拝み、お堂を整えたと伝えられています。

そんな縁起があるからでしょうか。妙楽寺の千手観音像は長いあいだ秘仏とされ、つい最近まで、33年に一度しか見ることができない貴重な仏様でした。それゆえに金箔が残り、今なお黄金に輝いているのです。そんな秘密の宝物を間近に見ることができるのですから、現代の人は幸運であるといえましょう。

圓照寺の「尾崎」

もとは遠いという字に松の木の松と書いて「遠松寺」としたのがはじまりで、のちに洪水の被害によって対岸の地となるこの場所に移されました。その際に、現在の「圓照寺」という字にあらためたといわれています。

本尊は高さ2m50cmを超える大日如来。大日如来は薬師如来より新しい仏様です。というのも、もともと釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来の3つの如来があったのですが、平安時代になって空海や最澄の密教が伝わると、3つの如来のさらに上の最高位に大日如来が設定されたのです。そんな密教の根本である大日如来像は平安時代の終わりのもので、鎌倉彫刻の新しい時代の息吹が感じられます。

羽賀寺の「右手」

あるとき、この場所に鳳凰が飛んできて、羽根を残して飛び去りました。その羽根を天皇に届けたところ、それは平和の証であると喜んで、有名なお坊さんである行基にお寺をつくらせました。そして、羽を喜ぶという由来から羽賀寺という名前になりました。

羽賀寺にある重要文化財、十一面観音像の右手は異様に長く、困っている人たちを救おうと言わんばかりに手を差し伸べています。多田寺の素朴な仏像に比べると雅であり、清少納言や紫式部が活躍した平安時代のうららかさが感じられます。

明通寺の「寄進札」

明通寺の本堂と三重塔は国宝です。鎌倉時代の建物ですが、当時の柱は赤色で模様も描かれおり、とてもきらびやかな建物でした。というのも、このころ若狭でいちばんの勢力を持っていたのが明通寺で、民衆の信仰を集めていました。

明通寺には「寄進札」という木の札がたくさん奉納されています。そこには「お金やお米をこれだけ納めたのでどうか願いを叶えてください」というようなことが書かれており、鎌倉から江戸時代にかけて400枚ほど残っています。どうしてそれだけの寄付ができたのかという点までさかのぼれば、大陸や北前船の交易による富でつくられたのが、この国宝であるといえましょう。


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