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西津の箸はなぜ日本一なのか?

護松園(GOSHOEN)

護松園は北前船で財を成した古河屋の迎賓館。北前船とは日本海を走る貨物船で、北海道から、青森、秋田、山形、と日本海側を走り、その途中でさまざまな物資を積み下ろしして江戸時代の物流を支えていました。とくに小浜は京都から最も近い海であり、北前船の重要な寄港地でした。そこで活躍したのが古河屋。この町いちばんの商人として、全国の長者番付にもその名前が刻まれています。古河屋はこの「西津」を拠点とし、護松園の隣には古河屋の邸宅や蔵がズラリと建ち並んでいました。

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 古河屋の船玉

護松園のそばに古河屋の船玉があります。船玉とは船大工がつくる北前船の精巧なミニチュアで、航海安全を願って神社に奉納するもの。それも、船自体を御神体とし神様としてお祀りする珍しい信仰です。絵馬に比べて船玉は作るのが大変です。

そのため、個人ではなく地域を代表して奉納されることが多いのですが、この船玉は古河屋の古河屋による古河屋のための奉納船。自分たちが乗っている船そのものが神様になるのですから、まるでノアの方舟に乗っているかのように航海できたことでしょう。

宗像神社の船玉

ここにも船玉があります。古河屋の船玉に比べてどうでしょう。その装飾性の高さから、船そのものが神様であるという信仰がより感じられるのではないでしょうか。古河屋だけではありません。西津はたくさんの北前船関連の店が建ち並ぶ港町でした。もしかすると、この船玉は西津の人たちが合同で奉納したものかもしれません。

港町としての西津はどのような道を歩んできたのか。まず、地名から西津を考えてみましょう。西津とは、西側の港。つまり、かつては西津より古い港が、東側にあったことになります。実は、内外海(うちとみ)半島の付け根の部分に「古津」という地名が残っているのですが、その古津に対して西側にある港が西津なのです。

網目の道

このあたりは網目のような道が伸びています。太良右ェ門町、仁右ェ門町、九郎兵ェ門町、これらは網元と呼ばれる漁師の名前が地名になっています。この加門町通りの加門さんもまた小浜城の築城にともない引っ越してきた地曳漁師の名前です。

海の資源は限られていますから、誰がどこで漁をする権利を持つかは重要な問題でした。下竹原の漁師が引っ越してきたときも、この問題で揉めたといわれ、それぞれが自分の家の前で漁をして、網の権利がない者は沖に出て魚をとるしかなかったのでしょう。

漁師の風景

海沿いには漁港があり、漁師の作業小屋があります。男は網を直したり、女は魚を加工したり、それを小鯛のささ漬けの業者が引き取りに来たり。漁師町としての歴史は現在まで続いています。

室町時代には海外からの南蛮船も西津を目指してやってきました。たとえば、時の将軍に献上するために運ばれてきた象はインドネシアから中国を経由して、このあたりに上陸したといわれています。実は、この象が京都に運ばれていった後、その船は台風でボロボロになってしまったのですが、たった1年で修復して帰っていったという記録も残っています。西津には、世界に通じる港としてふさわしい技術者が揃っていたのかもしれません。


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