ほうきょういんとう
宝篋印塔
和久里、西方寺の境内に建つ市の塔は、花崗岩製のほぼ完全な宝篋印塔で総高3.5mに近い優品であるが、特に残存するさまざまな痕跡と、遺存の大小風鐸から復元可能な往時の華麗な装飾は、刻名に見える延文3年(1358)造立の大願主沙弥朝阿のただならぬ悲願と共に、市神(蛭子神)と並んでこの塔に霊験を祈拝して荘厳を怠らなかった庶民の篤い信仰を物語っています。 塔の造建者は、もと南朝の代官として小浜に住した長井雅楽介であるが、南北朝争乱の転変から延元2年(1337)に家出遁世して朝阿弥と号し、和久里に西方寺を営んで住持となり、延文3年の本塔供養に続いて翌4年には戦乱で廃壊した羽賀寺の修造に多大の助力があったと伝えられています。 塔の原位置は定かではありませんが、慶長12年(1607)京極高次が起した突抜・市場上下町の完成から、同年市蛭子社が勧請されており、恐らくその頃この塔も市場に移建され、毎月2・7の6回、市日の殷賑を見守ったのであろうと考えられています。寛永3年(1626)には市祭の能が奉納されています。しかし同17年(1640)には西部町衆の願いで八幡宮前永三小路の市場(市日は同じ)に移され、元和2年(1616)勧請の蛭子社と共に「市塔尊」と信仰され、毎年1月31日には八幡社地で市祭りの演能がありました。 のち塔は故あって明治6年(1873)に朝阿弥の故地・和久里に移建されましたが、本塔は小浜の庶民信仰を物語る歴史の道標です。 管理者:和久里区
基本情報
| 種別 | 歴史資料 |
|---|---|
| 指定区分 | 県 |
| 文化財名 | 宝篋印塔 |
| 員数 | 1基 |
| 時代 | 南北朝(1358) |
| 指定日 | 1996年5月31日 |
| 地区 | 今富 |
| 法量 | |
| 所在地 | |
| 一般公開 | 公開中 |