知っとこおばま:おばま縁の人物:ええやん!若狭の國 若狭おばま観光協会公式サイト

常高院 (じょうこういん)

= お市の方の娘であり、京極高次の妻 =

永禄11年(1568年)信長の妹お市の方と、江州・浅井長政の二女として生まれました。幼名 お初。姉は淀君、妹は徳川秀忠の正室で家光の母となった小督の方。京極高次に嫁し、関ヶ原戦には大津城で、高次と共に戦いました。高次が若狭小浜に転封となった後、大坂夏の陣では、豊臣方と徳川方の間にたち和睦につとめました。
寛永7年(1630年)後瀬山西北麓に伽藍を建立し、凌霄山常高寺と名付けて自ら開墓となり高次の菩提を弔いました。

常高院 (じょうこういん)
杉田 玄白 (すぎた げんぱく)

= 解体新書を著した小浜藩医 =

享保18年(1733年)9月、江戸・小浜藩下屋敷で藩医の子として生まれました。オランダの医学書「ターヘル・アナトミア」を手に入れると小浜藩医中川淳庵らと実際の解剖に立会い日本語へ翻訳する必要を感じます。安永3年(1774年)、中川淳庵、中津藩医前野良沢と共に「解体新書」を刊行、西洋医学を日本に取り入れました。このときのことを「蘭学事始」に著しています。

小浜病院玄関前には、銅像があります。

杉田 玄白 (すぎた げんぱく)
中川 淳庵 (なかがわ じゅんなん)

= 解体新書を著した小浜藩医 =

元文4年(1739年)、江戸で小浜藩医中川家に生まれました。杉田玄白らとともに、オランダの医学書「ターヘル・アナトミア」を翻訳するため、オランダ語のアルファベットからはじめるという大変な苦労をしました。その後、安永3年(1774年)「解体新書」を刊行、日本の医学の進歩に著しく貢献しました。

青井の高成寺境内に顕彰碑が建てられています。

中川 淳庵 (なかがわ じゅんなん)
綱女 (つなじょ)

= 忠誠心をつらぬいた子守 =

明和6年(1769年)、子守奉公をしていた最中に狂犬に襲われ、とっさに自らの命を投げ出して背負う子をかばいました。そのとき、綱15歳でした。小浜藩はその忠誠心をたたえ褒美を出し、その勇気は人々に感動を呼びました。

山手一丁目に墓碑、西津小学校に石像があります。

綱女 (つなじょ)
伴 信友 (ばん のぶとも)

= 江戸末期の国学者 =

安永2年(1773年)2月、小浜市竹原の山岸家に生まれました。天明7年(1787年)、15歳のときに江戸に行き、伴家の養子になり日本の歴史を研究。本居宣長の学風を慕って宣長没後の門弟となっています。考証学は、科学的方法で国文・国史の考証に数多くの著書と業績を残しています。
享和6年(1801年)「若狭旧事考」を著すなど、江戸末期の国学者の大家として活躍しました。

伴 信友 (ばん のぶとも)
東条 義門 (とうじょう ぎもん)

= 江戸末期の国語学者 =

東条義門は天明6年(1786年)、妙玄寺(広峰)に生まれ、14歳のとき、勉強を志し京都の学校へ入学。後に、妙玄寺を継ぎながら国分法の研究に打ち込み、多くの著書を発表しました。著書「山口栞」では、動詞、形容詞、助動詞の活用後に画期的研究が見られます。

今日の国語の基礎を築いた一人です。妙玄寺境内に顕彰碑が建っています。

東条 義門 (とうじょう ぎもん)
梅田 雲浜 (うめだ うんぴん)

= 幕末の尊皇志士 =

文化12年(1815年)小浜市雲浜で小浜藩家臣の矢部家に生まれました。後に祖父の実家である梅田姓を名乗り藩校で崎門学を学びました。
小浜藩で儒学者として活躍していましたが、藩主・酒井忠義に建言したのが怒りに触れ、藩籍を剥奪されます。

江戸末期、ペリーが来航すると条約反対と外国人排斥による尊皇攘夷運動を唱え、志士の指導者として勅許反対を推進しました。
これがもとで、井伊直弼による安政5年(1858年)の「安政の大獄」で捕らえられました。捕縛後は京都から江戸に送られ、厳しい取り調べや拷問においても口を割らず、獄中で病死しました。「妻は病床に臥」の句を残しています。

松源寺に墓碑、小浜公園に顕彰費、中央公園に銅像、千種二丁目に生誕碑がそれぞれあります。

梅田 雲浜 (うめだ うんぴん)
幾松・木戸 松子 (いくまつ・きど まつこ)

= 明治維新三傑 木戸孝允の妻 =

天宝14年(1843年)小浜藩士の娘として生まれました。
京に出たのち、家が貧しかったため舞妓となりましたが、京では知らない人がいないほどに、三味線や笛など諸芸に秀でた芸妓となりました。文久3年、尊皇攘夷派の長州藩士・桂小五郎(後の木戸孝允)と知り合い、身を隠しながら活動する小五郎に食料を運び、お座敷で天下の情勢を集めるなど、かばい支え続けた知恵と努力と真心の人です。

幾松(川端 龍子画)

幾松・木戸 松子 (いくまつ・きど まつこ)
山川 登美子 (やまかわ とみこ)

= 明治の女流歌人 =

明治12年(1879年)7月、現在の千種一丁目旧小浜藩士山川家に生まれました。大阪・梅花女学校に学ぶころから与謝野鉄幹に師事し雑誌「明星」に投稿。大阪の鳳晶(のちの与謝野晶子)とは良きライバルとなり、増田雅子とともに歌集「恋衣」を出版しています。「我が息を芙蓉の風に例へますな十三弦を一息に切る」など熱い胸中を詠み明治を代表する女流歌人になりましたが、結核を患い、明治42年4月小浜で29歳の生涯を閉じました。病床で詠んだ短歌は歌集にまとめられています。

山川 登美子 (やまかわ とみこ)
佐久間 艇長・佐久間 勉 (さくま ていちょう・さくま つとむ)

= 海軍大尉 潜水艇長 =

明治12年(1879年)9月、三方町で生まれました。
明治30年(1897年)、小浜中学校(現在の若狭高校)を卒業しましたが、海軍兵学校に入学後も母校のためにボートの設計図などを贈っています。その後海軍大尉となり、明治43年4月15日、山口県・新湊沖で、艇長として乗組んだ潜水艇が潜航訓練中に故障のため遭難、全員が殉職しました。殉職した艇長の胸ポケットには、事故の状況を克明に記録した手帳がありました。その冷静で勇気ある行動が大きな感動を呼びました。

海望山(小浜公園)に銅像があります。

佐久間 艇長・佐久間 勉 (さくま ていちょう・さくま つとむ)
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